小寺財団とは

ごあいさつ
小寺記念精神分析研究財団 理事長 藤山直樹

小寺記念精神分析研究財団のホームページをご訪問くださり、ありがとうございます。当財団を代表してごあいさつさせていただきます。

 当財団は精神分析とそれに関連する領域における実践、研究、訓練の日本における発展を促進することを目的に1993年に発足いたしました。2020年まで長く常務理事を務めた故島村三重子がその親族よりひきついだ遺産を、その遺志にもとづいて医療の領域に建設的に役立てようという決意が、小此木啓吾初代理事長というすぐれたオーガナイザーの力によって形を得たことにより、この財団は設立されました。以来すでに30年近く、小此木啓吾、狩野力八郎、そして小生の三代の理事長のもとで、当財団はその使命を着実に果たしてまいりました。

 精神分析は欧米諸国で一般市民が親しんでいるほど、日本ではまだ十分になじみのあるものになっておりません。人間のこころの深く真剣な検討を通じて真に自由で人間的な生き方を生み出す実践として、精神分析が日本の市民の幸福に資する余地はとても大きなものがあります。またそれは学問としても、人間のこころの本質を洞察し、精神医学や心理学など関連の諸学に大きな影響を与えてきましたし、今後もさらなる知を生み出す可能性を帯びています。
現在のこころの臨床では、診断基準でひとを見立て、薬を投薬すればいい、というような非現実な単純な考え方や、ある問題について意識的に努力してそこを解決していこう、というような人間のこころをあまりに単純に還元してしまう考え方が幅を利かせています。精神分析は、人間の主体性の持つとらまえがたい性質を十分に踏まえて、自己のさまざまな側面との対話を回復させていこうとする独特の営みです。精神医療や心理臨床が真に豊かに人間を援助するには、精神分析の考え方が生きていくことがきわめて重要です。

 精神分析が日本に根を下ろすには、精神分析的実践が存在しなければなりません。そして、精神分析的実践が成立するには分析家やセラピストの存在が必要です。そうした実践を志す人が一人前になるには、自分が精神分析やセラピーを受けること、実際に実践してそれについてのスーパービジョンを受けること、ケースの検討を集団で行うこと、講義を受けること、さまざまな学問的対話を経験することなどの経験が積み重なることが本質的に重要です。とすれば当然、さまざまな人たちが集い、ネットワークをなして有機的に関与する場が不可欠だということになります。

 当財団の最大のミッションは、そのような場、さまざまな訓練や研修や学術的討論の舞台となる場の生成と維持に貢献することです。具体的には当財団は、日本精神分析協会・およびその精神分析インスティテュート東京支部の本部と事務局、日本精神分析学会の本部の機能を引き受けさせていただいております。同時に、それらの団体の主催する学術集会、セミナー、委員会、会議などに当財団のセミナールームを必要に応じて無償で貸与することもしております。こうした諸団体の事務局機能を財団が引き受けることによって、それらの団体の有機的連携を促進してきました。

 さて、財団のミッションはそうした場や舞台を設定することにとどまりません。財団自身が交流や対話を生み出すということも、重要なミッションです。それには大きく分けて、セミナーの提供と国際交流企画の推進があります。セミナーはケースセミナー、理論的講義、原書講読など、多くのジャンルを網羅しています。医学生や研修医など、精神分析に関心を持とうとしている方向きからすでに実践に携わっている方向きまでさまざまな方々に向けたセミナーが用意されています。狭い精神分析的実践にとどまらず、訓練グループ体験、力動的な家族療法、力動的な産業臨床など、精神分析的な考え方の多彩な広がりを具現するセミナーも開催しています。精神分析と他の専門性を学際的に橋掛けする野心的セミナーも企画しています。

 また、当財団は、大規模な国際的なワークショップやセミナーを何度も主催、共催、後援して、国際交流と対話に寄与してまいりました。くわえて、海外の分析家や専門家が訪日した折に日本の専門家とスモールグループで触れ合えるセミナーも随時企画してまいりました。

 以上、当財団の活動のあらましをご紹介してまいりました。市民のこころの健康の増進やこころについての深く実際的な知の探究のために、大きな可能性をもつ精神分析、そして現今のこころの臨床の領域に欠けている、丁寧できめ細かい人と人の触れ合いを通しての臨床的営みをもたらす精神分析を、日本においてさらに親しみのあるものとしていくために、当財団はこれからも地道に、しかし確実な歩調で活動を続けていきたいと考えております。

 皆様のご支援を今後とも末永く、伏してお願いいたします。

小寺記念精神分析研究財団設立の経緯
常務理事 島村三重子

小寺記念精神分析研究財団の基金は、小寺泰子が父小寺謙吉の妹土方常の曾孫である島村三重子に遺贈したものです。小寺泰子は1990年11月14日に他界し東京に所有していた土地を島村三重子に遺贈しました。島村三重子の精神医療に携わる方々に教育研修に役立てたいという意向を受けて1992年に小寺記念精神分析研究財団設立準備委員会が小此木啓吾、岩崎徹也、目黒克己、菊本治男、須田唯雄らにより立ち上げられ、1993年2月に小寺記念精神分析研究財団は発足しました。

小寺家の人々
評議員 土方健男

一般財団法人小寺記念情報分析研究財団の基本財産を提供した小寺家の基礎を築いた小寺泰次郎は、幕末、1836年(天保7年)に、三田(さんだ)藩(現在の神戸市の北側に隣接する兵庫県三田市)の足軽小寺弥五太夫の次男として生まれました。

 三田藩藩主の九鬼家は、14世紀半ばの南北朝期に志摩半島で活躍した海賊の九鬼一族の子孫で、戦国時代は織田信長の水軍として名を高めましたが、江戸時代には摂津の三田に移封され小大名になりました。

 しかし、幕末の安政6年に藩主になった九鬼隆義は、進取の精神に富み、藩校「造士館」の教授から取り立てた郡奉行・白洲退蔵(後の横浜正金銀行頭取、白洲次郎の祖父)の助言の下、藩改革に取り組みました。福沢諭吉と知遇を得た九鬼隆義は、西洋文明を積極的に取り入れ、藩士に学問を勧め、商業や農業など実業への転身を促しました。

 家老の白洲退蔵は、幼い頃より優秀で努力家だった小寺泰次郎に目を付け、成人すると藩主の許可のもと、士分に取立て、13の農村を担当する奉行にしました。泰次郎は、米の増産と農地の拡張に成果を上げました。また、明治維新の廃藩後は、藩主の命によって大阪八幡屋新田の開墾業にも従事しました。

 遡って安政5年、幕府とアメリカの間で日米修好通商条約が結ばれ、新たに神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が約束されました。住民と外国人とのトラブルを恐れた幕府は、既に使われている兵庫港に外国人を入らせないために、海辺の農村の神戸村に新たに港を作ることにしますが、朝廷の勅許がなかなか得られず、開港の準備は遅れます。江戸幕府の外国奉行が、神戸開港の責任者である神戸奉行を兼任するのは慶応3年7月。開港の約束は同年12月。準備は、工事を請け負った大阪の御用商人と、神戸村の地主らが進めるほかありませんでした。さらに開港直前の10月、徳川慶喜が朝廷に大政奉還をします。開港の責任者が誰なのか、定かでないままの開港です。

 開港後、外国人居留地周辺の土地は、しばらく、地租改正による重い税負担と居留地の外国人に対する恐れなどから、容易に土地を手放すものが多かったといいます。一方、維新の動乱の中、神戸の将来性に注目する藩主はほとんどいませんでした。

 しかし、白洲退蔵を中心に進めていた藩政改革の成果で、廃藩置県に際して明治政府に一銭一厘の旧藩債も引継がなかったといわれる三田藩の九鬼隆義は、神戸の将来性に目を付け、明治6年、神戸に「志摩三商会」を設立し、神戸港後背地域を買収します。白洲退蔵、小寺泰次郎も同社の社員となります。神戸の生田川の付替え埋立地を、新開地を境にして、九鬼隆義が東側を、泰次郎が西側を低価格で買いました。

 見込み通り、居留地を中心とした元町・三宮界隈が整備され発展すると、土地の地価は一挙に高騰しました。九鬼隆義の事業は手を広げ過ぎて多くが失敗に終わりましたが、志摩三商会を離れた泰次郎は、不動産業と金融業以外には手を出さず、商売は順調に発展し、神戸の所得番付の筆頭に上り詰めました。

 泰次郎は明治13年に県会議員に選ばれてから長く県会議員を努め、副議長にもなりました。県議会議員としては特に得意分野の市街地整備、道路の幅員拡張などを進め、栄町通の改修、山手新道の新設に貢献しました。

 泰次郎は福沢諭吉、九鬼隆義の影響を受けて教育熱心で、ふるさとの三田に理想の学校を作るという情熱を持ち続けていました。長男の謙吉はもちろん、次男の壮吉、三男の又吉の教育は厳格でした。自分の子供が徴兵年齢に達すると入隊させました。ほかに三女ありました。長女は実業家小磯吉人氏に嫁し、二女は東京帝国大学法科大学長、法学博士土方寧氏に嫁し、三女は岐阜県内務部長法学士長谷川久一氏に嫁しています。当財団の島村三重子常務理事は、土方寧の曾孫、小寺泰次郎の玄孫です。

 泰次郎は明治38年(1905年)に亡くなりました。現在の神戸市中央区に1885年頃から築造を始め、泰次郎没後の1911年に完成した私邸は、1941年に神戸市が買い取り「相楽園」として一般に公開されています。

泰次郎の長男、小寺謙吉は1877年(明治10年)に神戸市生田区中山手通5丁目で生まれ、上京して語学の研鑽に励んだ後、1897年(明治30年)渡米し、コロンビア大学法学部、同大学高等法学部を卒業してドクター・オブ・シビルローの学位を得たのち、ジョン・ホプキンス大学大学院に入り政治学を学びました。続いてドイツに渡り、ハイデルベル大学、ウイーン大学法学部、スイスのジュネーブ大学で国際法学などを学びました。

 1904年(明治37年)に日露戦争が始まると、謙吉は泰次郎に呼び戻されて入営し、前線で外国記者に対する通訳などをしました。日露戦争後、謙吉は満州に渡り、三男壮吉、四男又吉(二男弘吉は若くして死去)と、大豆粕製作所「小寺洋行」を設立します。この事業は、壮吉の才覚と努力で成功を収めます。事業が軌道に乗った1906年(明治39年)、謙吉は欧州に戻り、ジュネーブ大学で学問を続けました。

 1907年(明治40年)、欧州から帰国した謙吉は、この年、東郷平八郎元帥の媒酌で初代海軍兵学校長の中牟田倉之助の娘・貞子と結婚しました。帰国後、謙吉は教育振興のため小寺家のふるさとの三田に中学校を設立することを決め、土地を買収して1912年(明治45年)、三田中学校(現在の三田学園)を開校し、1914年(大正3年)まで自ら校長を務めました。

 また、帰国翌年の1908年(明治41年)、周囲の声に押されて衆院議員に立候補、31歳の若さで当選しました。その後、1928年(昭和3年)の選挙まで6回当選し、衆院議員を務めました。この間、「小寺洋行」は、第一次世界大戦後の混乱とロシア革命後のルーブル暴落で致命的な打撃を受け、1923年(大正12年)に銀行取引停止に追い込まれました。連帯保証人となっていた謙吉は、返済のために自宅(現在の相楽園)を売却しました。1941年(昭和16年)、神戸市がこの土地を買い取りました。

 三男の壮吉が、泰次郎譲りの才気活発な事業家タイプであったのに比べて、謙吉は学者肌であったと言われています。無類の読書家で、自分で読むだけでなく外国の原書を、戦前から戦後にかけ二十年間、早稲田、東大、慶応、法政、中央などの各大学に寄贈を続けました。早大に『小寺文庫』があり、慶応にも『小寺氏記念図書』などが残っています。早稲田大学図書館の「小寺文庫」は3万6500冊に上ります。

 戦後、中井一夫神戸市長が公職追放で辞職し、1947年(昭和22年)に、神戸市の初の公選市長として小寺謙吉市長が誕生しました。英語に堪能で進駐軍と対等に渡り合い、衆議院議員時代の人脈で中央政界に顔の効いた謙吉は、戦災後の神戸の復興、市の財政再建などに全力で取り組みましたが、道半ばの1949年(昭和24年)、出張中の東京で急病のため死去しました。

小寺財団の基金を提供した小寺泰子は、謙吉の一人娘で、謙吉が亡くなった1949年(昭和24年)から、しばらく三田学園の理事長を務めました。1990年(平成2年)11月に東京で亡くなりました。

(参考文献)
 
 今西利一 著
「三田足軽町の周辺:川本幸民と小寺泰次郎を生んだ」
 高田義久 著
「最後の藩主九鬼隆義とその時代」(雑誌「歴史と神戸」通号281)
 八尾 明 著
「旧小寺邸の厩舎」(神戸市史紀要「神戸の歴史」第3号)
 中西 裕 著
「小寺謙吉と小寺文庫寄贈の経緯」(早稲田大学図書館紀要)
 原 忠明 著
「激動期・六人の神戸市長:原忠明回想録」
 七宮ケイ三著
「織田水軍:九鬼一族」ほか

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